top of page

ユスティニアヌスの疫病 ~感染症の歴史Vol.4

更新日:9月15日

この記事には広告が含まれます。


感染症の歴史を紐解くと、「正しく知って正しく恐れる」ことの大切さが見えてきます。


今回は、歴史上初めて記録されたペストによる大規模なパンデミックとして知られる未曽有の感染症に焦点を当てます。


ree

「キプリアヌスの疫病」後のローマ帝国


ローマ帝国は3世紀、「3世紀の危機」と呼ばれる政治的混乱と「キプリアヌスの疫病」という深刻なパンデミックに見舞われました。


これにより、広大な領土の統治と防衛のため、帝国は東西に分割され、二人の正帝による分割統治が行われます。


やがて「ミラノ勅令」を発布したコンスタンティヌス帝が登場し、キリスト教を公認するとともに、後に東ローマ帝国の首都となるコンスタンティノープル(現イスタンブール)を建設するなど、強大な権力を背景に混乱した帝国を再統一しました。


しかし、コンスタンティヌス帝の死後に再び帝国は分裂。


最終的にキリスト教を国教としたテオドシウス帝が再統一しますが、その死後、帝国は東ローマ帝国西ローマ帝国に再び分裂することになります。


※パンデミックの定義については「アントニヌスの疫病 ~感染症の歴史Vol.2」の記事をご参照ください。


※キプリアヌスの疫病については「キプリアヌスの疫病 ~感染症の歴史Vol.3」の記事をご参照ください。

東ローマ帝国の夢を砕いたパンデミック


6世紀半ば、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)ユスティニアヌス1世の治世下で最盛期を迎え、地中海世界全域への領土拡大によって「古代ローマ帝国の復活」を夢見ていました。


ところが西暦542年、首都コンスタンティノープルを未曾有の疫病が襲います。


この疫病はヨーロッパ、地中海沿岸、そして中東へと広がり、記録上最初のペストによる大規模なパンデミックとされ、後に「ユスティニアヌスの疫病」と呼ばれました。

発生と拡大の経緯


発生源はエジプトペルシウムとされ、発熱、悪寒、吐き気に加え、リンパ節の腫れや化膿が特徴的な症状であることから、病原体はペスト菌と考えられています。


ネズミとそのノミが媒介し、穀物輸送を通じてパレスチナ地方を経由し、急速にコンスタンティノープルまで広がりました。


当時の首都は30〜40万人の人口を誇り、「世界の富の3分の2が集まる」と称される国際都市でした。


大帝国の都市化と交易網の拡大は、感染症の拡大を容易にしてしまったのです。


ピーク時にはコンスタンティノープルで1日あたり5,000~10,000人が死亡したとされ、推定で帝国全体の人口の約4割が犠牲となっただけでなく、さらに地中海世界全域で流行し、死者は数千万人に上ったと推定されています。


死者があまりに多いことから埋葬が追いつかず、遺体は家々や街路に放置され、ついには海に投げ捨てられるほどでした。


この惨状については、当時の歴史家プロコピウスが『戦史』の中で詳細に記しています。

パンデミックの影響


ユスティニアヌス1世も感染しましたが、幸運にも軽症で回復しました。


しかし帝国は深刻な打撃を受け、行政機能は低下し秩序維持は困難を極めます。


パンデミックが引き起こした主な影響


・農業の停滞:労働力不足で生産低下


・商業の崩壊:食料不足と経済疲弊、徴税基盤の崩壊


・防衛力の低下:兵士不足で軍事力が衰退


これらの要因は皇帝の「ローマ帝国再建」構想を阻み、西地中海支配の維持を困難にしました。


その結果、後のイスラム勢力拡大を許す一因ともなります。

教訓


人々は病原体や媒介動物の知識はなかったものの、当時すでに人や物資の移動制限、港や市場の閉鎖など、「感染経路の遮断」を試みていました。


その後もペストは繰り返しヨーロッパを襲いますが、やがてペスト菌の発見や住環境の改善、公衆衛生対策によって流行は収束へと向かっていきます。


当時よりもさらに都市化やグローバル化が進んだ現在、都市封鎖などの強制的な手段も時には有効です。


しかしそれ以上に、過去の教訓を活かし、私たち一人ひとりが公衆衛生の意識を高めることこそが、感染症予防の鍵となるのではないでしょうか。



←前の記事                               次の記事→

コメント


bottom of page