仏教公伝と疫病 ~感染症の歴史Vol.8
- 株式会社熊本有恒社
- 9月15日
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更新日:9月21日
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感染症の歴史を紐解くと、「正しく知って正しく恐れる」ことの大切さが見えてきます。
今回は、日本への仏教公伝と同時期に蔓延したとされる疫病に焦点を当てます。

仏教公伝
4世紀中頃から朝鮮半島では、百済(くだら)、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)の三国が争う時代に入りました。
倭国(日本)は百済と同盟関係を結び、しばしば軍事援助を行っていました。
『日本書紀』によると、西暦538年(552年とする説もあり)、第29代欽明(きんめい)天皇の時代に、軍事援助の返礼として百済の聖明王が仏像や経典を贈り、これが日本への仏教公伝とされています。
当時、仏教を受け入れようとする蘇我稲目(そがのいなめ)と、日本古来の神々を重んじて仏教の受け入れに反対する物部尾輿(もののべのおこし)が激しく対立しました。
欽明天皇は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を妃にしていたこともあり、蘇我稲目の意見を無視することができず、仏教受容を決断します。
蘇我氏と物部氏の対立と疫病
天皇の許可を得た蘇我稲目は、自宅を清めて日本最初期の寺院とされる向原寺を創建し、聖明王から贈られた仏像を安置しました。
ところが、その後国内で疫病が大流行します。
物部尾輿は「疫病の流行は仏教を信仰したために起こった」と主張し、蘇我稲目の死後、欽明天皇もこれを認めたため、寺は焼かれ仏像は池に投げ捨てられました。
欽明天皇崩御後の第30代敏達(びだつ)天皇の時代にも再び疫病が流行し、蘇我稲目の子蘇我馬子(そがのうまこ)も感染します。
占いで「かつて破棄された仏像の祟りである」と出たため、蘇我馬子は仏像を再び祀るよう天皇に上奏し、許可を得ました。
しかし疫病は収束せず、物部尾輿の子物部守屋(もののべのもりや)が「仏教を信じるからこそ災いが続く」と再び主張し、敏達天皇もこれを認め、仏教の信仰を止めるよう命令します。
物部守屋は父と同じく寺を焼き、仏像を池に投げ、さらに尼僧を鞭打ちました。
それでも疫病は収まらず、ついには敏達天皇自身も病に倒れ、仏教の信仰を蘇我馬子にだけ許可した後、崩御しました。
丁未(ていび)の乱
次の第31代用明(ようめい)天皇も病で早世し、蘇我氏と物部氏の争いは宗教対立から武力衝突へと発展します。
物部守屋は穴穂部皇子を擁立しようとしましたが、聖徳太子(厩戸皇子)や崇峻天皇(泊瀬部皇子)らを味方につけた蘇我馬子との戦いに敗れ、命を落としました。
これが丁未の乱です。
こうして、仏教に反対していた物部氏は歴史の表舞台から姿を消し、勝利した蘇我氏が権力を握り多くの寺院を建立したことで、日本における仏教は一気に広がりを見せました。
仏教と疫病
仏教公伝の時期に流行した疫病は原因不明ですが、疱瘡(天然痘)であったと考えられています。
疱瘡(天然痘)はインドを起源とする説があり、シルクロードを経由して仏教と共に伝わってきた可能性も否定できません。
現在よりもずっと医療が未熟だった当時の人々にとって、身分を問わず命を奪う疫病は説明のつかない脅威でした。
そのため、日本古来の神道を信じる人々は、「外国の宗教を持ち込んだことに怒った在来の神々からの罰」と解釈し、仏教を信じる人々は「仏像を粗末にした祟り」と考えるなど、宗教的説明を求めざるを得なかったのです。
結果的に、疫病は新しい宗教を受け入れる契機ともなり、仏教が日本社会に定着する重要な要因のひとつとなりました。
疫病が宗教や権力構造を揺るがす力を持つことは、ローマや中国だけでなく日本においても、この時代からすでに示されていたのです。
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