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晋王朝の疫病 ~感染症の歴史Vol.6

更新日:9月15日

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感染症の歴史を紐解くと、「正しく知って正しく恐れる」ことの大切さが見えてきます。


今回は、戦乱と政治的混乱が絶えない時代に、仏教が急速に台頭する背景の一部ともなった疫病に焦点を当てます

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西晋期の疫病と戦乱


中国の歴史において晋王朝は、西晋(265~316年)と東晋(317~420年)に分かれます。


司馬炎(武帝)によって建てられた西晋を継承し、280年にを滅ぼして三国時代を終結させました。


しかし、統一が達成される少し前である275年頃から、首都洛陽では疫病が大規模に流行していました。


その後、武帝の死後に跡を継いだ恵帝は政治を顧みず、諸王が権力をめぐって内戦を繰り広げる「八王の乱」へと発展します。


歴史書『資治通鑑』によれば、この混乱によって人口の流出と食糧不足が深刻化し、疲弊した都市や軍営では疫病が蔓延しました。特に軍中の集団生活は不衛生であり、敗戦や避難と重なって病が拡散したと記録されています。


この疫病による荒廃が人口減少や農業生産の低下、社会不安の増大につながり、異民族が侵入しやすい状況を作り出しました。


そのことが西晋の末期に五胡十六国時代が始まる要因の一つとされています。

五胡十六国時代永嘉の乱


「八王の乱」の過程で、諸王は北方異民族を戦力として利用しました。


しかしこれが、匈奴鮮卑といった異民族に自らの軍事力を自覚させる結果となり、やがて彼らは相次いで国を建て、五胡十六国時代が始まります。


中でも匈奴の酋長であった劉淵西晋からの独立を宣言し、漢(前趙)皇帝を称しました。


そして311年、劉淵の子劉聡永嘉の乱を起こして首都洛陽を陥落させ、西晋は滅亡します。


司馬氏の一族は江南に逃れ、司馬睿(元帝)建康(現南京)で即位し東晋を建国しました。

疫病と仏教の広まり


疫病の流行と社会的混乱は、従来の国教であった儒教への信頼を弱め、仏教道教といったの新しい宗教が台頭する背景の一部となりました。


仏教はインドから西域を通じて中国に伝わり、敦煌では西域出身の僧侶竺法護が経典を初めて漢訳しました。


また、西域から310年に洛陽へ来た僧侶仏図澄(ブドチンガ)は、五胡のひとつが建てた後趙の保護を受け、洛陽でそれまでタブーとされていた漢人への布教を行いました。


これにより仏教は救済の手段として広まり、特に身分の低い人々から強い支持を集めていきます。


戦乱や疫病などの社会不安が続く時代において、仏教の平等な思想や善行を積むことで救済されるという教えが、多くの人々の心の支えになったのかもしれません。


さらに401年には鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)長安(現西安)で布教を行い、仏教は急速に中国全土へと浸透していきました。

まとめ


王朝の疫病は、戦乱と相まって人口減少や経済の衰退を招き、異民族の侵入を許す社会的土壌を作りました。


そして、このような不安定な時代において、仏教の「善行による救済」という教えが人々の心を支える役割を果たしました。


疫病は単なる自然災害にとどまらず、社会や政治、宗教の変動を引き起こす影響力を持っていることが理解できます。



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