天平の疫病 ~感染症の歴史Vol.9
- 株式会社熊本有恒社
- 9月20日
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感染症の歴史を紐解くと、「正しく知って正しく恐れる」ことの大切さが見えてきます。
今回は、奈良時代に日本列島を震撼させた、天然痘とみられる疫病の大流行に焦点を当てます。

長屋王の変と天平の疫病
奈良時代、天平年間(729〜749年)は文化が花開いた一方で、疫病・飢饉・政争が重なる激動の時代でもありました。
『日本書紀』の編纂にも関わり、藤原氏の繁栄の基礎を固めた藤原不比等(ふじわらのふひと)が亡くなると、藤原不比等の子供である藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)と、皇族の中でも正統性の高い人物で政界の実力者でもあった長屋王が対立します。
729年、藤原四兄弟の謀略により、長屋王は「謀反を企て呪詛を行った」として自邸を囲まれ、自害に追い込まれました。これを長屋王の変といいます。
その後、735年から737年にかけて日本は天平の疫病と呼ばれる天然痘の大流行に見舞われました。
天然痘はインドや中国からシルクロードを経由して西方のローマ帝国まで広がったとされます。
『続日本紀』の記録によれば、この疫病は唐や新羅との交流が盛んだった九州・大宰府で最初に確認され、その後全国に広がり、首都平城京でも大量の感染者を出しました。
当時の日本の総人口の約25〜35%にあたる100万〜150万人もの命を奪ったと推定されるこの疫病は、長屋王亡き後の権力者であった藤原四兄弟の命も次々に奪うなど、政治や社会に大きな混乱をもたらしました。
朝廷では「長屋王の祟り」とする噂が広まり、これが日本における怨霊信仰の始まりとも言われています。
聖武天皇の祈りと東大寺の大仏
この疫病の猛威の中、第45代聖武天皇は仏教の力によって国を鎮めようと考え、741年「国分寺建立の詔」を発し、全国に国分寺と国分尼寺を設けることを命じました。
国分寺は各地に設置された官寺で、僧侶が国家の安泰と疫病退散を祈る役割を担いました。一方、国分尼寺は尼僧による祈祷と教育の場であり、女性の宗教活動の拠点でもありました。
さらに聖武天皇は、仏教の象徴として、巨大な盧舎那仏(るしゃなぶつ)を造立することを決意します。これが現在の奈良・東大寺の大仏です。
大仏建立は疫病や政情不安に苦しむ民衆の心をひとつにし、国家の再建を目指す壮大なプロジェクトとして進められました。
まとめ
天平の疫病は奈良時代の人々を恐怖に陥れましたが、その危機を契機に東大寺の大仏や全国の国分寺・国分尼寺が建立され、信仰と団結の象徴が生まれました。
聖武天皇のように、人々の心をひとつにする象徴を築くことは、混乱の時代において希望の光となり得ます。
国際交流の活発化が、文化や技術だけでなく病も運んできたことは歴史の皮肉と言えますが、私たちが今、東大寺の大仏を前にするとき、その背後には「疫病という見えない敵と戦った人々の祈りと願い」が込められていることを思い出す必要があるでしょう。
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