崇神天皇朝の疫病 ~感染症の歴史Vol.7
- 株式会社熊本有恒社
- 9月10日
- 読了時間: 3分
更新日:9月15日
この記事には広告が含まれます。
感染症の歴史を紐解くと、「正しく知って正しく恐れる」ことの大切さが見えてきます。
今回は、日本神話に記された、崇神天皇の時代に蔓延したとされる疫病に焦点を当てます。

古代日本を襲った疫病
日本での最初の疫病の記録は、第10代崇神(すじん)天皇の御世に見られ、『古事記』や『日本書紀』には、人口の大半が死亡するほどの疫病が蔓延したと記されています。
崇神天皇はこの疫病を自身の不徳によるものと考え、一心に祈りましたが効果はなく、宮中に祀られていた天照大神(あまてらすおおかみ)と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を宮中から出し、それぞれ別々に神社に祀ることにしましたが、それでもまだ疫病は収まりませんでした。
事態を憂えた天皇は占いにより解決策を見出そうとしました。
すると倭迹迹日百襲姫命(やまととそひももそひめのみこと)に大物主神(おおものぬしのかみ)が憑依し、「自分を祀るように」と告げたと伝えられています。
天皇はその言葉に従いましたが効果がなく、身を清めて「夢の中でもよいので、災いの原因を示して欲しい」と祈りながら眠りにつきました。
すると夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子(おおたたねこ)という者を探し出し、私を祀らせれば国は平穏となる」とのお告げを受けます。
天皇は大田田根子を探し出し、三輪山を御神体として大神(おおみわ)神社を建立し、大田田根子を神主として大物主神を祀ったところ、疫病は終息したと伝えられています。
日本で最初のパンデミック
この疫病は天然痘だった可能性が指摘されていますが、正確な原因は不明です。
崇神天皇の治世は諸説あり、一説では、3世紀後半~4世紀前半とされ、この時期はローマ帝国でキプリアヌスの疫病が流行し、中国の晋でも大規模な疫病に襲われていた時期に重なります。
これはローマ発の疫病がシルクロードを経由して中国、さらに日本まで広がったパンデミックであった可能性も考えられます。
また別の説では、2世紀後半~3世紀前半とされ、この時期はローマ帝国でアントニヌスの疫病が、同時期に中国の後漢でも疫病が流行していた時期と重なります。
邪馬台国の卑弥呼が中国の魏に使いを送っていたのもこの頃であり、やはりローマから中国、そして日本にもたらされパンデミックが起こっていても、何ら不自然ではありません。
※パンデミックの定義については「アントニヌスの疫病 ~感染症の歴史Vol.2」の記事をご参照ください。
※キプリアヌスの疫病については「キプリアヌスの疫病 ~感染症の歴史Vol.3」の記事をご参照ください。
※晋の疫病については「晋王朝の疫病 ~感染症の歴史Vol.6」の記事をご参照ください。
※後漢の疫病については「後漢末期の疫病 ~感染症の歴史Vol.5」の記事をご参照ください。
手水舎の設置と衛生習慣の始まり
古代、人が集まる場所といえば神社でした。
崇神天皇は疫病をきっかけとして神社に手水舎を設置し、参拝前に手洗いや口をゆすぐ作法を奨励しました。
さらに食事の前や排泄後に手を洗う習慣も、この頃にできたと言われています。
このように国内の衛生管理を強化し、疫病蔓延を抑止しようと尽力した崇神天皇は後に「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と呼ばれ、最初に国土を統治した天皇として称えられました。
約二千年の時を経た現代でも、崇神天皇が始めた手水の作法が神社参拝の習わしとして残り続け、古代の知恵と疫病対策がいかに深く日本文化に根付いたかを示しています。
コメント