キプリアヌスの疫病 ~感染症の歴史Vol.3
- 株式会社熊本有恒社
- 8月18日
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更新日:9月15日
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感染症の歴史を紐解くと、「正しく知って正しく恐れる」ことの大切さが見えてきます。
今回は3世紀半ば、ローマ帝国を長期にわたって苦しめた感染症に焦点を当てます。

パクス・ロマーナ終焉と「3世紀の危機」
「五賢帝」最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後、安定の時代「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」は終わりを迎え、3世紀頃のローマ帝国は「3世紀の危機」と呼ばれる動乱期に直面していました。
軍人皇帝が乱立したことで、帝国の権威が失墜し国土が分裂、さらにゲルマン民族やササン朝ペルシアなどの異民族による侵入も頻発し、帝国各地が荒らされるなど、ローマ世界は未曾有の混乱に揺さぶられ続けました。
そんな混乱のさなか追い打ちをかけるように、帝国を揺るがす出来事が起きます。
ローマ帝国を揺るがせた「キプリアヌスの疫病」
紀元249年から発生し、数十年間にわたり断続的に流行したとされる疫病は、北アフリカのカルタゴでキリスト教司教を務めていたキプリアヌスによって記録されており、彼の名前にちなんで「キプリアヌスの疫病」と呼ばれています。
キプリアヌスの疫病は、エジプトのアレクサンドリアやローマなどの主要都市を含む広い範囲で発生し、ローマ帝国内でパンデミックを引き起こしました。
おそらく天然痘だと思われるその疫病の症状は、嘔吐、激しい下痢、持続的な発熱、四肢の壊死、失明などを伴い、患者の多くは数日で死亡しました。
18 世紀のイギリスのローマ史家エドワード・ギボン著『ローマ帝国衰亡史』によると、特にピーク時のローマでは1日に約5,000人が亡くなったとされ、当時のローマ皇帝ホスティリアヌスとクラウディウス2世も犠牲になったほか、アレクサンドリアでは人口の約3分の2が命を落としたと推測されています。
※パンデミックの定義については「アントニヌスの疫病 ~感染症の歴史Vol.2」の記事をご参照ください。
キリスト教の台頭
死者の多さや、手足の一部が腐るなどの激しい症状などから、この疫病は世界の終末が間もなく到来する予兆であるとの考えが広まりました。
感染者は家族からも見捨てられ市外に放り出され、市中の遺体は放置されました。
人々が不衛生なローマを離れ田舎に逃げた結果、さらに感染者が激増したことで農業が滞り、食料不足が飢餓を引き起こしました。
同時にローマ軍の兵士不足も深刻な問題となり、帝国の防衛力は大きく低下し、外敵の侵攻を招きました。
一方で、これまで迫害されていたキリスト教徒たちは、身内や信者でない感染者にも献身的に看病や埋葬を行い、遺体の適切な処理を行うことで、他の都市と比べて死亡率を低下させることに成功しました。
キプリアヌスは説教を通じて、人々を終末的な危機に立ち向かうよう励まし、生存者たちは積極的に救済活動を行ったキリスト教徒の行動に感銘を受け、多くがキリスト教に改宗しました。
この現象は、後の西暦313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、その後キリスト教がローマ帝国の国教となる一因となったとされています。
現在、世界最大の宗教勢力であるキリスト教ですが、迫害から拡大への転機になったのが疫病の流行である点は興味深いところです。
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