アントニヌスの疫病 ~感染症の歴史Vol.2
- 株式会社熊本有恒社
- 8月11日
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更新日:9月20日
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感染症の歴史を紐解くと、「正しく知って正しく恐れる」ことの大切さが見えてきます。
今回は、紀元2世紀後半、ローマ帝国で起きた未曽有の感染症に焦点を当てます。

ローマ帝国最盛期の衛生状況
「五賢帝」最後の皇帝であるマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の時代、帝国は強大な軍事力を背景に広大な領土を支配し、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる安定の時代を謳歌していました。
当時のローマは、下水道や公衆トイレ、公衆浴場などが整備され、他の都市と比べると衛生環境は進んでいたといわれます。
しかし、下水道網は都市全域をカバーしておらず、下水道に接続されている個人宅はほとんどありませんでした。
そのため、公衆トイレはあったものの、排泄物が街路に捨てられることも珍しくありませんでした。
さらに、公衆浴場は多くの市民にとって憩いの場でしたが、消毒技術が未発達であり、また、健康な人と病人が同じ湯に浸かるため、病気を媒介する温床となる環境でもありました。
ローマ帝国を襲った「アントニヌスの疫病」
西暦165年頃、東方のアルケサス朝パルティアとの戦争から帰還した兵士たちが、未知の病をローマへ持ち帰ったとされます。
この病は瞬く間に帝国全域へ拡散し、エジプトからシリアに至るまで広がりました。
特定の地域で流行する「エピデミック」に対し、国や地域を越えて同時多発的に流行する状態を「パンデミック」といいますが、このときの流行はまさにそれに該当します。
歴史家カッシウス・ディオによると、この疫病は1日に2,000人の死者を出し、総死者数は500万人以上とも推測されています。
兵士の大量死によって軍事力が低下し、帝国の防衛線が脆弱になったことでゲルマン人の侵入を招いたことが、ローマ帝国衰退の一因になったと考えられています。
また、この病により皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス自身も命を落としたため、「アントニヌスの疫病」と呼ばれています。
※エピデミックの定義については「アテネの疫病 ~感染症の歴史Vol.1 」の記事をご参照ください。
東の大国、後漢まで巻き込んだパンデミック
ローマでアントニヌスの疫病が猛威を振るっていた同時期、中国では後漢末期、霊帝の治世が続いていました。
首都洛陽は当時ローマと並ぶ大都市であり、人口過密な環境にありました。
両都市はシルクロードを通じて交易があり、『後漢書』に登場する「大秦王安敦」は、マルクス・アウレリウス・アントニヌスを指すとみられています。
この霊帝の時代、中国でも繰り返し大規模な疫病が発生した記録があります。
ローマで流行した病がシルクロード経由で洛陽にもたらされたパンデミックである可能性も考えられます。
※後漢の疫病については「後漢末期の疫病 ~感染症の歴史Vol.5」の記事をご参照ください。
大国の衰退と新たな宗教の台頭
アントニヌスの疫病については、当時の医師ガレノスが記録を残しており、原因は麻疹、天然痘、発疹チフスなど諸説あります。
多くの人々が死と隣り合わせとなる中で、伝統的なローマの多神教や国家の無力さを目の当たりにした人々は、病人の看護や助け合いを宗教的な義務と捉えていた初期のキリスト教徒たちの姿に心を動かされ、キリスト教に改宗する者も多く現れました。
一方、中国の後漢では、疫病や飢餓による混乱と政治的腐敗に絶望した民衆の間に「太平道」という新興宗教が広まり、やがて「黄巾の乱」と呼ばれる反乱へ発展し、後漢は滅亡を早めることとなります。
ローマ帝国と後漢――地理的には遠く離れた二大国が、ほぼ同じ時代に疫病の大流行(パンデミック)を経験し、その後に新たな宗教が台頭したという事実は、世界史において極めて興味深い現象といえるでしょう。
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