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後漢末期の疫病 ~感染症の歴史Vol.5

更新日:9月15日

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感染症の歴史を紐解くと、「正しく知って正しく恐れる」ことの大切さが見えてきます。


今回は、中国史において大きな転換点となった「黄巾の乱」の背景にある、深刻な疫病の流行に焦点を当てます。

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後漢末期の疫病


2世紀の後半、ローマアントニヌスの疫病が猛威を振るっていた同時期、中国では後漢末期で、首都洛陽は当時ローマと並ぶ大都市として人口過密な環境にありました。


両都市はシルクロードを通じて交易があり、史書『後漢書』に登場する「大秦王安敦」は、マルクス・アウレリウス・アントニヌスを指すとみられています。


この頃後漢王朝の特に霊帝の治世下、168年から180年代にかけて大規模な疫病が何度も起こり、多数の死者が出たといわれています。


ローマで流行した病がシルクロード経由で洛陽にもたらされたパンデミックである可能性も考えられます


※パンデミックの定義については「アントニヌスの疫病 ~感染症の歴史Vol.2」の記事をご参照ください。

疫病と社会の動揺


この疫病については、医師張仲景が傷寒(発疹チフスの類とされる)について記した書を残していますが、天然痘や麻疹説など諸説あります。


疫病の蔓延によって生産活動が滞り、飢餓や経済的困窮に追い込まれ、農村の荒廃は一層深刻化しました。


租税を納めることすら困難になる一方で、政治腐敗や地方官僚の暴政によって生活がさらに苦しくなった人々は、王朝に対する不満を募らせていきます。


このような状況の中、「太平道」という新興宗教が広まり、その創始者である張角は「病を癒す力」を持つとされ、多くの農民を引き付けました。

三国志のきっかけとなった「黄巾の乱」


張角は病に苦しむ民衆に対し、「符水(お札を溶かした水)」を飲ませて治療する祈祷を行いましたが、当時の人々は「集団免疫」という概念を知らず、感染症が自然に収束する時期を、張角の奇跡によるものと信じたとしても、不思議ではありません。


張角は「疫病や飢餓は腐敗した後漢王朝のせいだ」と説き、王朝の腐敗に立ち向かうべく、「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし」というスローガンを掲げて、184年に反乱を起こしました。


農民たちは黄巾を頭に巻いて蜂起したため、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれるようになります。

疫病による大国の衰退


疫病や飢餓による混乱と政治的腐敗によって弱体化した社会構造が、農民たちの絶望を後押し、「黄巾の乱」急速に中国全土に広がりました。


後漢王朝は地方豪族や軍を動員して鎮圧にあたり、最終的には反乱を抑え込むことに成功しましたが、その代償は大きく、王朝の威信は著しく低下しました。


対照的に地方豪族や軍閥が台頭し、中国は群雄割拠の三国志時代へと突入。


最終的に霊帝の子献帝曹丕に帝位を禅譲し、後漢王朝は滅亡します。


この出来事は、「疫病が歴史を変える契機となる」という教訓を、現代を生きる私たちに示してくれます


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