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平安時代の疫病と陰陽師 ~感染症の歴史Vol.10

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感染症の歴史を紐解くと、「正しく知って正しく恐れる」ことの大切さが見えてきます。


今回は、平安時代を襲った疫病と、それに立ち向かった人々の知恵に迫ります。

平安時代を襲った疫病の数々


華やかな貴族文化が花開いた平安時代。


和歌や宮廷文学が栄えたその裏側で、都の人々を繰り返し襲っていたのが疫病でした。


平安時代の人々は、疫病を単なる自然現象とは考えておらず、とりわけ政治的な争いの中で非業の死を遂げた人物の霊は、「怨霊」となって災厄をもたらすと恐れられました。


早良親王の怨霊と疫病


785年、新都・長岡京造営の任に当たっていた藤原種継が何者かに暗殺される事件が起きました。


事件への関与を疑われた桓武天皇の弟・早良親王は無罪を訴えましたが、真相は不明のまま流罪となり、絶食の末に亡くなりました。


その後、都では疫病・飢饉・天変地異が相次ぎ、桓武天皇の母や皇太子までもが相次いで死去したため、人々はこれを「早良親王の祟り」と結びつけました。


その祟りを鎮めるため、早良親王は「祟道(すどう)天皇」と追称され、名誉を回復しました。


御霊会(ごりょうえ)の始まり


859年から877年まで続いた貞観時代には、各地で大地震や隕石の落下、洪水や飢饉などが多発しました。


さらに都では、咳や発熱を伴う“風病”と呼ばれる疫病が急速に広がり、多くの死者が出たと『続日本後紀』に記録されています。


この流行は、症状の特徴から現代のインフルエンザに近い疾患だった可能性も指摘されています。


こうした疫病の蔓延と、早良親王など非業の死を遂げた人々の怨霊への恐れが重なり、863年には怨霊を鎮めるための御霊会が行われ、これが後に祇園祭へと発展していきました。


菅原道真の怨霊と疫病


「学問の神様」として有名な菅原道真は、藤原時平との政争に敗れて太宰府へ左遷され、903年、失意のうちに任地で没しました。


その後、都では落雷や疫病、道真の左遷に関与した貴族達の急死が相次ぎます。


特に930年の清涼殿への落雷は強い衝撃を与え、「道真の怨霊の祟り」と恐れられました。


その怨霊を鎮めるため、朝廷は道真の官位を回復し、北野に社を建立します。


こうして怨霊はやがて「天神」として神格化されました。

陰陽師の活躍 ― 疫病と呪術の時代


平安時代は、陰陽道が国家制度として整えられた時代でもあります。


朝廷には「陰陽寮(おんみょうりょう)」が置かれ、疫病が流行すると、陰陽師たちは疫病を「方位の災い」と捉え移動の吉凶を占う「方違え(かたたがえ)」や、怨霊を鎮め疫病退散を願う御霊会において、祈祷や祭祀を通じて儀式を主導するなどの役割を担いました。


賀茂忠行・保憲父子や後に伝説となる安倍晴明など陰陽師たちの活躍は、

まさに疫病と陰陽道の結びつきを象徴しています。

まとめ


平安時代の疫病は、人々に恐怖をもたらし、多くの命を奪いました。


しかし同時に、

・御霊信仰

祇園祭

陰陽師文化

といった、後世に受け継がれる日本独自の宗教文化を形づくる契機ともなりました。


また、医学が未発達だったとはいえ、人々は無策だったわけではありません。


人々は、独自の方法で疫病に向き合いました。


・人の移動制限

行幸や祭礼を中止し、人が集まる場を避けることで感染拡大を抑えようとしました。


・都市の衛生改善

川の浄化や死体処理の制度化など、都の衛生環境を整える取り組みが進みました。


・祭祀による社会安定

科学的根拠はなくとも、祓えや祭祀は社会不安を和らげ、人々の心を支える役割を果たしました。


原始的に見える対策の中にも、「人の移動を制限する」「社会不安を抑える」といった発想は、現代の防疫にも通じるものがあります。



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