弥生人の防災の知恵と登呂遺跡の洪水被害 ~災害の歴史Vol.2
- 株式会社熊本有恒社

- 11月1日
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更新日:4 日前
防災は「正しく恐れ、正しく備える」ことが重要です。
2,000年前の日本列島でも、自然災害と向き合い、知恵を絞りながら暮らしていた人々がいました。
今回は、静岡県の登呂遺跡を舞台に、弥生時代に起きた大洪水と、そこから見える弥生人の防災の知恵に迫ります。

登呂遺跡とは?―水田文化とともに栄えた集落
静岡県の登呂遺跡は、弥生時代後期(約2,000年前)の稲作を中心とした集落跡です。
高床倉庫や竪穴住居跡、水田跡などが発見され、水田とムラが一体となった日本の稲作文化が実物資料として初めて明確になった場所として知られています。
約12棟の住居、2棟の高床倉庫、約8ヘクタールの水田が出土し、当時の農耕生活の姿を今に伝えています。
大きな災害の痕跡
発掘調査の結果、登呂遺跡の住居や水田は厚い泥層に覆われていることが判明しました。
これは、安倍川が氾濫して発生した大洪水の痕跡と考えられています。
登呂遺跡は生産と生活の中心を失い、2度の大洪水で壊滅的被害を受けたと推定されています。
さらに、同時期にはマグニチュード9級の巨大地震(いわゆる南海トラフ地震)も起きたとされ、津波が大量の土砂を運び、住居を瞬時に埋めた可能性も指摘されています(諸説あり)。
通常なら木製品は水に流されますが、登呂遺跡では生活道具がそのまま埋没していました。このことが、急激な災害で一気に土砂に埋まった証拠と考えられています。
弥生人の知恵
水田跡の調査から、弥生人の高度な水管理技術が明らかになっています。
中央に用水・排水路
矢板や杭で畦を補強
50以上の区画に整然と分割
安倍川に対する護岸工事跡
単に農耕を行うだけでなく、水を制御して生きる知恵を持っていたことが分かります。
しかし、自然の力がこれを上回ったとき、人々は無理に留まらず、集落を放棄して移住したと考えられています。
この時期から増える「高地性集落」にも、災害からの退避という側面があった可能性があります。
まとめ
弥生時代の人々は、自然と対立するのではなく、共に生きる柔軟さを持っていました。
災害を恐れながらも受け入れ、生き抜くための最善策をとったのです。
現代の私たちも、ハザードマップの確認や備蓄、防災意識など、できるところから備えを積み重ねることが大切です。
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